根拠とは?

 わたしたちが、「根拠は何か?」と問うときは、情報やメッセージに対して納得しておらず、受け入れられないことが前提となります。

 ラケット感情(正当化された怒り、傷つき、自尊心低下、不安、憂うつ)と結びつくことになります。

 例えば、内科において、「〇〇についての異常値がある」と示されたとして、それに対して、「根拠は何か?」と問い続けることは可能です。

 客観的な根拠なるものは、必然性ではありえず、蓋然性にとどまるからです。

 また、言葉という記号を駆使して、知識や経験にもとづいた情報を伝えるとしても、「それでは納得しない。根拠は何か?」と問い続けることは可能です。

 自己意識において、「〇〇について、△△というふうに理解した」というところに到達するためには、無意識による気づきとの結びつきが前提条件となります。

 それは、言語記号とイメージとの結びつきということです。(≒ アハ体験)

 ウィトゲンシュタインによるアスペクト、言語ゲーム等の哲学概念も参考になります。

 

 精神医学において、「その診断根拠は何か?」という問いに対して、正当な根拠を伝えることは困難であります。

 DSMシステムによる診断は、妥当性が疑わしく、「〇〇状態」「〇〇障害」などという情報は根拠どころか、蓋然性すらも不十分であります。

 また、問いを発する者が、不信感、猜疑心を前提としているわけですから、より良くわかり合うやりとりとは結びつかないことになります。

 それに対しては、「貴い沈黙」「判断停止(エポケー)」により対応することが、適切かつ誠実であると考えます。

 ある男性(30代)は、私を問い詰めようとしましたが、じっと憐みをもって彼を見つめながら、黙りました。(このような輩に対して、納得に至る説明など存在しないことは明らかである!)

 彼はそれに対して、重ねて見下し、侮辱、暴言してきました。

 沈黙する相手に対して、攻撃することは反作用と結びつき、己のネガティブな心理を強化することになります。(「獄卒」の心理学)

 

 わたしたちが、言葉の内容よりも、相手の顔や姿勢、語りのリズム・テンポの方に反応することで、交流を展開していることは、日常的な経験からも自明であります。

 DSMによる診断方式よりも、心理構造分析の方が、経験的には蓋然性が高いと信じています。

 しかしながら、「あなたのやり方は、独善的で信用できるものではない」ということであれば、それは尊重されることです。

(我が思想こそが、唯一絶対の真理であると語る者は、愚者である!)

 精神医学は、医者によって診断が違うという歴史的な問題もありますので、他所におけるセカンド・オピニオン、サード・オピニオンを受けられることもよいと思います。