「他者」という存在

 他者とは、近づくほどに「隔たり」「遠さ」により近づきえない「無限の存在」であること。(レヴィナス)

⇒ 他者のことを完全には理解しえないし、「所有」の対象ではない!

 

 他者との交流の結果を決めるのは、「わたし」であること。

⇒ CP人間が、相手に対する否定・批判を繰り返すことは愚かなことである。

⇒ 「怒りの炎」で自らを焼くことになる。

 

 やりとりにおいて、何を話すのか(コンテンツ)よりも、どのように表現するのか(コンテクスト)の方が重要であり、やりとりの結果を決めることになる。

⇒ わたしの考えや気持ち、望むことを明確に伝え合うこと。

 

 「表情の認知」に関わる実験で使用される「顔の写真」は作られた表情(「悲しみ」「怒り」「怖れ」「喜び」を表現するとみなされる役者の顔)であるが、「悲しみ」と「喜び」、「怒り」と「怖れ」の表情を判別することは難しいものである。

 そもそも、私たちがある感情を表出するとき、あんな人工的な表情にはならないし、それを読み取れないからといって、「表情認知における欠陥」などと定義づけるのは、「作り出された科学的事実」に過ぎず誤謬である。

 

 私たちは、他者の顔認知において、「感情」を前提として、「あなたの顔をこのように認識するであろう」という顔のイメージを認識している。したがって、多くの顔認知は不一致であるということ!(「発達障害」でなくても!)

 そもそも、他者の方も、自分の顔のイメージと実際の表出とは一致していないのだが。

⇒ 「正しい顔認知」という判断基準は何なのか?誰がそれを判断する権利をもつのか?

⇒ 「私は他者の顔をいつも正しく認識している」という者があれば、彼は人間ではなく、完全なる超越者すなわち「神」と呼ぶことにしよう!